立派な建物があっても中身が伴わない支援
夕方、同じ市内に住む3歳児が虐待死してしまったニュースでを見ていたら、見覚えのある施設が映って驚いた。
先週子供のことを相談に行った施設が「虐待しした子供を一時預かった施設」として紹介されたのだ。
私が訪れた施設の正式名称は「発達障害児支援センター」というが(果物の名前の愛称もある)、健康福祉センターという大きな施設の中にあり、他にも福祉関係の行政施設が入っていて、児童相談所もそのなかに入っていたのでろう。
ところで「発達障害児支援センター」の職員の対応は「私立校に加配の先生を派遣する前例はない」というかなり冷淡なもので、「次回はお子さん連れで」と言われたものの、嫌がる子供を連れていってもたいした成果もなさそうだしと、次回に予約をしないであとにした。
ただ、施設はとてもきれいで新しくトイレもバリアフリーが徹底していて、障害者が利用しやすくなっていた。
お腹がすいていたのでカフェテラスに寄ると、注文を知的障害者とおぼしき中年男性が取りに来た。
カウンターにはそれを見守る中年女性がいて、障害者の自立支援のためにもこの施設があるのかと思うと少し気が晴れたが、しばらくしてやって来た団体によって、また心が大きく揺れた。
この施設で行われているか講座の受講生とおぼしき中年女性の一行だった。
なんの講座かは分からない。
もしかしたら手話とか障害者支援のボランティアを養成する講座かもしれない。
(そういえば、日本画を趣味としている母は高齢者に絵を教えるボランティア養成講座を受けたと言っていた)
立派な建物を作ったはいいが、本当に行政の助けが必要な人には役立たず、余暇を楽しむ人たちにとって都合のいい施設になっているのかもしれないと感じた。
ここに来ている中年女性や私の母のように恵まれた人たちは少しぐらい日本の経済が傾こうと日本のどこかで災害が起きようと高成長に支えられた右肩上がりの人生のまま終えることができるだろう。
「勝ち組」の私たちは、子供ことは行政を頼らず、自分達の力で情報を集め、必要なことは自分達の身銭を切って子供に与えようとしている。
しかし、その力のない人は何を頼ればいいのだろうか。
それは、公の支援ではなく、民間の力なのかもしれない。